2007.11.20

雑想 : 科学の本質って

今の科学というものは、結局は世界のモデル化に過ぎないのだろう。

つまり、これこれこう考えれば、色々な物事を矛盾無く合理的に説明できるし、予測と結果も一致する。よかったよかった、という話だ。

でも、合理的な説明ができたからといって、それが物事の本質をちゃんと表していると言えるのか、といえば、必ずしもそうとは言えないと思う。そんなのは実は表面的な理解に過ぎず、本質とはほど遠い可能性だって大きいんじゃないだろうか。


11月13日放送のNHK『爆問学問』で地球微生物学の高井研氏が「科学なんて絶対的なものじゃない、人間がそう考えてるだけなんだ」 (※うる覚え) といった旨のことをおっしゃっておられたが、おそらくそれはこういう意味のことなんじゃないかと思う。

科学の発展の歴史において、新しい理論の登場によりそれまでの理論が否定された例は少なくない。たとえば日常的な範囲での物体の運動は、全てニュートン力学によって合理的かつ高精度に説明できる。しかし、相対性理論の登場により、ニュートン力学は速度が光速に近づくにつれて成立しなくなることがわかっており、今や本質とは程遠い理論であるとされている。そしてその相対性理論も、ブラックホール内部などの特殊条件下では量子論的効果の影響により破綻すると言われており、この問題の解決のため、相対性理論と量子論の整合を目指す量子重力理論の構築が進みつつある。でもそれも結局のところ、より高精度な理論モデルを作っているというだけで、まだまだ本質とは程遠いのかもしれない。(※とはいえ、筆者はこれらの理論をちゃんと理解してるわけではなく、結局はテキトーなこと言ってるだけである)

そして、科学がこのように不確かなものであるということは、科学を様々な価値観のものさしとして使うことが極めて危険である、ということを意味する。

たとえば、人間は日々色々な生物の命を奪って生きている。そして、科学的に見れば比較的単純なモデルでそれらの生物の行動その他を説明できる (例えばゴキブリは高い社会性を持つ昆虫だが、本能に従って機械的にその生活を営んでいるだけであり、学習能力は一切無いと言われる) わけだから、人間に比べれば下等な生物に過ぎない、だから罪の意識を感じる必要は無い、と考えてしまっている人は少なくないだろう。

しかし、それは自分の都合のいいように科学を拡大解釈してるだけの話に過ぎないのではないだろうか。生物の行動を単純なモデルで説明できる、というのは客観的かつ合理的な科学だが、それを命の価値にまで当てはめようとするのは、何ら根拠の無いただの主観的考えであり、合理的・科学的とは言えない。科学の主観的・利己的拡大解釈という宗教ではないだろうか。そしてこの宗教の信者は多い・・・。私の大学時代、応用生命化学科所属の学生が、人間の命の価値は他の生物より高い、というようなことを真顔で言っていた・・・。そしてそういう考えを持つ人物は何人も居た。個人的には、そういう風潮には危機感を覚える。そういった科学の利己的な解釈が、今の地球破壊のひとつの根本になっているのかもしれない。

もちろん、科学を追及したり、あるいはそれをヒントに世の中の本質について考えてみたりすることはとても意味のあることだろう。しかし、科学が不確かなものであることを理解した上で、自らの解釈が利己的な方向に曲がっていないか気をつけることは絶対に必要なんじゃないだろうか。(その一方で、それが逆に科学を過小評価することに繋がるようならそれもまた問題だと思うが。過大評価も過小評価も容易にできる話で、難しいのは適正に評価することだなぁ。科学に限った話ではないが)

あるいは科学を追及するよりも、自らの無意識という広大な内宇宙と語り合う──その方法は様々で、瞑想であったり、作曲や絵画、文学といった芸術であったり、宗教であったりするわけだが──ほうが、世界の本質を知るための近道なのかもしれない、とか思ってみたり。

私は、全ての命は等しくかけがえのないものだと思う。だから、全ての命に敬意を払い、必要の無い殺生はできる限り避けるようになるべく心がけている。何を根拠にそう思い、そうしているのか、というと正直何の根拠も無い話ではある。でも、そうした考え方が地球を守ることに繋がるのではないか、と漠然と思っている。

まぁ、一種の宗教みたいなもんだなぁ、これは。

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