2009.12.28

雑想 : 生きるということは綺麗事ではない

当たり前の話ではあるが、生きるということは綺麗事ではない。生きるためには、食べるため、あるいは自分の身を守るため、その他様々な理由で、他の生物の命を奪わざるを得ない。これはもちろん、人に限った話ではない。一見は平和的に見えるごく一般的な植物でさえ、病原体や害虫に対しては、農薬に似た物質を作り出して対抗する防御機構を持っていたりもする。この植物が自然に作り出す農薬様物質には、化学農薬と同様に発ガン性がある。だから無農薬栽培の野菜なら綺麗・安全、ということはなく、むしろ農薬に守られて育ったものより高い発ガン性を持つことすらあるという。また、雑草が農作物の成長を妨げるように、植物同士での生存競争もある。植物も、自らが生きるために、他者を殺しているのだ。

人は時に、自らが綺麗でありたいと願う。そのために、煩悩を絶ち、禁欲し、肉食・魚食を絶って菜食して精進する、というような生き方を選択したりもする。しかし、それが動物であれ植物であれ、命は命だ。植物の命が動物の命より軽いということはないだろう。植物を食べる場合は、植物の種類にもよるが、動物の場合と違って、必ずしもひとつの個体全体を殺す必要はなく、食べる部分だけを切り出して食べることもできる。だが、多細胞生物は、多くの生物の共生体である。ひとつの個体全体にも命は宿るし、個々の細胞にも命は宿る。どういう形であれ、命を奪って糧とする、という点は、等しく変りないと思う。

鯨のような、高い知能を持つ生物を食することを忌み嫌う人もいる。しかし知性の高低と、命の価値とを客観的に関連付けることは不可能だろう。ではなぜ、高い知能を持つ生物を食することを忌み嫌うののだろうか。それは結局、人間は高い知能を持つから特別の存在であって欲しい、という気持ちの裏返しに過ぎ無いのかもしれない。要するに、これは差別である。

人は、人として生まれた以上、人として生きるしか無い。どのような生き方を選択するとしても、聖人にはなれないし、ましてや人を超越した何かになれるわけではない。

人は、狩猟本能を持つ。つまり、他の命を奪い、それを食することに快楽を覚える生物だ。人が本能として持っているこういった性質を否定することは、人を否定することに他ならないだろう。そんな人を否定するような生き方を、私は選びたいとは思わない。私は、良くも悪くも人として生きたいと思っている。

私は趣味で釣りをする。食べない魚はリリース(放流)するが、基本食べるために釣ってるので、釣った魚は容赦なく殺すし、食べる。そして、これを楽しんでやっている。それを恥じる必要はないと思う。もちろん、節度は大切だ。食べる以上に釣らない、繁殖力が弱い魚種はキープは最小限に留める、といった。そして何より、「ごちそうさま」と手を合わせて目を閉じるその一秒に込めるちょっとした感謝の気持ち。こういったことを守った上で、堂々とやればいいのではないだろうか。

このように、生きるということは綺麗事ではない、ということは、一つには、自分は他の命に迷惑をかけて生きるしか無い、ということを受け入れて生きよう、ということだ。

その一方で、こういう事でもあるのではないだろうか。他者が、自分に迷惑をかけることを受け入れて生きよう、と。

だから私は、必要と思うならためないなく殺生する一方で、必要無いと思う場合は、なるべく殺生を避けるように心掛けるようにしている。たとえば、蚊もゴキブリも基本放置である。今の日本の一般的な生活環境においては、少なくとも人間に対しては、これらの生物が健康に及ぼす危険性は高くないと考えているからだ。蚊に刺されればかゆいし、ゴキブリの見た目はグロテスクだとは思うが、そういった程度のことなら、ちょっと我慢すればよいだけの話で、殺す理由にはならないだろう。いちいち殺さなくてはいけない理由が見当たらないため、私はなるべく殺さない。(もっとも、もし犬を飼ってたりすれば話は少し違うが。蚊は犬にとって致命的なフィラリアという寄生虫を媒介するため、犬を守るためには蚊は殺さなくてはならない。)

蚊やゴキブリを放置することは衛生上好ましくない、という考えもあるだろう。だけど、衛生環境というものは総合的に考える必要があるものではないだろうか。

綺麗に保てば、健康に生きられると考える人は多い。しかしそれは必ずしも正しくはない。人が健康に生きるには、免疫力を高く保つ必要があるが、免疫は病原体と戦うことで強くなる。病原体との接触は過度であれば病気になるが、適度な接触は、大切な事だと思う。ただし、病気や遺伝が原因でそもそも免疫力が弱い、といった場合はもちろん話は違ってくるが。

キスを頻繁にする人は、キスをしない人より長生きする傾向があるという。キスをすることで、快楽物質が分泌されるのがその一つの理由らしいが、もうひとつの理由としては、唾液中の様々な微生物を交換し合うことにより、お互いの免疫力を高めることができるかららしい。

このように、他者が自分に対して及ぼす綺麗ではないことは、そのバランスに次第では、とてもありがたいものでもある。

今の日本の場合は、あまりに清潔すぎるゆえに免疫力が弱まっている傾向があるとも聞く。なら、蚊やゴキブリを放置するぐらいが、むしろ程良い衛生環境と言えるのかもしれない。

ただ、バランスが大事である点を忘れてはならない。清潔に保つことも重要には間違いないので、ゴキブリが繁殖しすぎないように部屋を掃除することも大事だし、適宜、充分な手洗いをすることも大事だ。その上で、必要以上に気嫌いすること無く、付き合って行けば良いのではないだろうか。

これは益虫、これは害虫、と機械的にくくってしまって、それを基に殺したり殺さなかったり、というのは良くない考え方だと思う。

毒は量次第。必要なものだって、量が多すぎれば毒となる。塩は生きる上で絶対に摂取する必要があるが、摂りすぎれば健康を害するのは周知の通り。加えて言えば、塩にも致死量があり、一度に多量に摂取した場合、死に繋がることだってあるのだ。その逆に、害とされるものも、うまく付き合えば害にはならないし、むしろ有益になりうることもある。

20090910_bio_hasu.jpg

これはずばり、仏教における「蓮の教え」なのかもしれない。蓮は、汚い泥中より咲き出て、美しい花を開く。そして、その蓮の生命を支えているのが、汚い泥なのだ。だから、綺麗ではないもの、に対しても、敬意を払い、上手に付き合っていきたい。

私は、幼少の頃より、必要と思われない殺生を避けて生きてきた。どうしてそうだったのかはよくはわからないが、今は亡き祖母は、敬虔な仏教徒だったので、その影響があったのかもしれない。

でも私は自分のことを仏教徒だとは思わないなぁ。仏教の教にあるような、煩悩を絶ち、禁欲し、精進する、ということには、私は興味はない。

人は人として生まれた以上、人として生きるしか無い。では、良い人生を生きるにはどうすればよいのだろうか。人が本能として持つ、欲や煩悩といったものを絶つ、というような、人を否定するような考え方は好きにはなれない。

それよりは、生きるということは綺麗事ではない、ということを受け入れること。自分が他者に対し綺麗ではない行為をせざるを得ない事を受け入れること、他者が自分に対し綺麗ではない行為をすることを受け入れること。その上で、節度を保ちつつも、堂々と楽しみ、生きれば良いと思う。

究極の、綺麗事ではないこと。それは、自分が死ぬ、ということだろう。生きるということは綺麗事ではない、ということを受け入れることは、自分がいつ死んでもおかしくはない、ということを受け入れることだ。

私は幸い、今まで大きな病気や怪我をすることはなく、そこそこ健康に生きてくることができたが、人生は時に、なんでもないことでふと終わることがある。交通事故に巻き込まれることもあれば、釣りを楽しんでいる時に落水してそのまま溺れ死ぬこともある。

私は今年初め、深夜に釣りにいった際、対岸で右往左往するサーチライト船の光を見た。夜が明けてから知ったところでは、そこで釣り人が落水し、残念ながら亡くなったという。最近も、釣り人の死亡事故のニュースが相次いで全国ニュースになったが、実は釣り人の落水死亡事故は決してめずらしいものではなく、毎年にように、日本だけで100名前後もの人が、釣行の際の事故で命を落としている。珍しくないから、複数の人間が一度に亡くなるような大きな事故でない限り、全国ニュースにはならないため、このことはあまり知られていないのだろう。

生きるということは綺麗事ではない。ある程度の危険を冒さないと楽しめないことも多い。釣りの場合、足場の悪いテトラ帯などが好ポイントだし、私もテトラ帯に入って釣ることが多い釣り人の一人だ。しかし、生きるということは綺麗事ではない。そういった危険を冒すことは、死に繋がることがある。比較的安全に思える足場の良い堤防でも、落水すれば助からないことだってある。だから、必要な安全対策をし、そして絶対に無理はしないように心掛ける必要がある。

そして、死を受け入れる、ということはもう一つ別の意味がある。自分が、他者を殺してしまうかもしれない、という可能性がある、ということを受け入れることだ。

飼い猫を外に出してしまったために、飼い猫が車に轢かれて死んでしまった、ということもあるだろう。私の5匹の飼い猫は室内飼いで幸いにも皆元気だが、不注意から外に出したてしまったことも何度かあり、危ない場面もあった。また、猫以外では、亀や魚、その他様々な生き物を、飼育上の無知や不注意から殺してしまってたことがある。

こういったペットの死は割と身近なものだが、人を殺してしまう可能性だって、身近に潜んでいる。交通事故を起こす可能性が、その一つだろう。危険を伴うレジャーにおいて、自分の不注意が、同行者の死に繋がってしまうという場合もある。私の大学時代には、サークルの先輩が1人、交通事故で亡くなってしまったし、他のサークルで、活動中の事故により人が亡くなったこともあった。誰もが、そういったケースにおける加害者になり得る。

死を受け入れてこそ、自分の、そして人に限らず他者の命を、大切にしていけるのだと思う。

※私は衛生や宗教に関する専門家でも何でも無いです。あくまでいち素人が書いた駄文としてお読み頂ければ幸いです。

Categories: 雑想

Category: 雑想

Trackbacks

Trackback URL: