2009.12.30

雑想 : 命の定義とは?

命の定義とはなんだろう。まず語るべきは、生物と無生物との境界とは? という命題だろうか。

生物と無生物との境界とは?

そこで登場するのが、ウイルスという存在だ。ウイルスは、他の生物の細胞を利用して、自己を複製することができる存在だ。しかし、自力での自己複製はできない。それだけでなく、ウイルスは、代謝を行なわない。つまり、単体として存在するときは、完全に静的な存在であり、何らの活動も行わない。他の生物の細胞に侵入し、それを利用して自己複製する過程も、あるいは突然変異による変化も、純粋に化学的反応によるもので、自発的な活動らしきものは一切やらない。

そこで、現在の生物学上では、ウイルスでは生物ではなく無生物であるとされている。が、しかしこれはあくまで現段階における便宜上の位置づけに過ぎない。生物ではないものの、生物学的存在ではある、とか言われたりもする。結局、現在の科学においては、生物と無生物の境界については、どう定義すべきかよくわかっていない、というのが現状のようだ。

ガイア理論──地球は生きている?

命の定義について語る上では、ガイア理論の存在も外せないだろう。

これは、地球は一種の巨大生命体だ、とする理論だ。しかしながらこれは、地球が生物学的な意味での生物に該当する、という意味ではない。ましてや、地球が意思を持つ、という意味でも無い。これは、地球における生物の存在が、地球の気候や環境の安定化・恒常化にとって重要な役割を果たしている、とする理論だ。そして、もし地球に生物が存在しなかったら、今あるような形での生物が存在できるような環境は維持されなかっただろう、ということだ。

無生物である地球と、そこに生息する生物との密接な関わり合いが、一種の地球環境統制システムを作り出している。それは一種の生命体とみなすこともできるかもしれない。これが、私が理解する限りでのガイア理論の概要である。生物学的な意味での生物と無生物との境界とは? という命題とはまた違った形でのアプローチなのが面白い。

ビッグバン宇宙論──宇宙は生きている?

なら、さらに話をスケールアップして、太陽のような恒星は生命体なのだろうか。この点について語るには、ビッグバン理論による宇宙の誕生と進化の過程について話す必要があるだろう。

人間をはじめとする様々な生物が存在するためには、多種多様な元素の存在が必要だ。しかし、ビッグバン理論によると、かつて宇宙には、水素やヘリウムのような単純な元素しか存在しなかったという。では、今ある多種多様な元素は、どのようにして生まれてきたのだろうか。

かつて宇宙には、恒星など存在しなかった。ビックバンによる超高熱状態で生まれた宇宙がやがて冷えてきたとき、あるのはそのほとんどが水素やヘリウムで構成されるガスだけだった。そのガスが重力によって集まりだし、ある一定以上の密度に達すると、極限まで圧縮された水素原子同士が核融合反応を起こし、それによって輝きを放ち始める。恒星の誕生だ。恒星の内部では、核融合反応により、さまざまな元素が生み出される。

大型の恒星がその一生を終える際には、超新星爆発と呼ばれる大爆発を起こす。この爆発により、恒星の内部で生み出された様々な元素がまき散らされると共に、平常時の恒星の内部では生み出せないような各種の重元素も生み出される。そして超新星爆発によりまき散らされた、様々な元素を含むガスが、新たな恒星、そして惑星、さらには生物の原料となる。

また、超新星爆発の影響は、新たな星の原料を提供するだけには留まらない。超新星爆発により生み出される強烈な衝撃波が、周囲に存在する星間ガスを押すことで、新たな星の誕生を促進するのだ。しかし、これは綺麗事だけでは済まされない。時にそれは、周囲の星、特に生物が生息する惑星に対しては、破壊的な影響をも及ぼす。それは地球も例外ではなく、地球にも過去において、超新星爆発の衝撃波により生物が激減した例があったという可能性も指摘されているようだ。

このような連鎖の中で、私たちの太陽系そして地球のような、生物が存在する環境は生み出された。

恒星は、生命の原料を生産して提供し、惑星の気象現象を駆動するエネルギーを提供し、植物の光合成のためのエネルギーを提供するなど、生物の存在とその活動を支える根源的存在だ。恒星が生命体と呼べるかどうかはわからないが、生物の存在と深く関る存在であるという点は確かだ。

だからある意味では、恒星は生きていると言えるかもしれないし、宇宙の進化の歴史において恒星同士が及ぼし合ってきた影響の大きさを考えると、宇宙そのものが生きていると言えるかもしれない。

命の定義とは?

すると、こんな形での命の定義が見えてくるように思う。

生物か無生物かを問わず、他者に影響を与え得る存在が命であり、与え合う影響は愛である。

万有引力は、万物に宿る。万有引力の到達距離は無限大とされており、あらゆる存在は影響を与え合っている。谷川俊太郎さんの言葉を借りれば、「万有引力とは、ひき合う孤独の力である」(二十億光年の孤独)。

よって万物に命は宿り、宇宙は愛に満ちている。しかし、愛は綺麗事とは限らない。時にそれは、破壊的だ。

考えてみれば、私たち人間が心動かされるとき。美しい風景、美しい空、美しい星々に心動かされるときもあれば、他の人の言葉や行動、芸術作品に心動かされるときもある。それが生きている人のものであることもあるし、死者が残したものであることもある。相手が生きているか死んでいるか、生物か無生物か、あるいは現実の存在か架空の存在か、という違いは、必ずしも重要ではない。

いわゆる2次元キャラに恋心を抱き、果ては結婚してしまう人まで出てきた世の中である。「アニメ」の語源が、万物に命が宿るとする考え方「アニミズム」なので、それもまた、ひとつの愛の形なのかもしれない。

これは人にとっての関わり合いだが、人以外の生物でも同様のことが言えるのではないだろうか。例えば、空き缶に隠れ住む魚にとって、空き缶はかけがえのない存在であるはずだ。

無生物同士の関わり合いについては、どう考えて良いかはわからないが、やはりそこにも命や愛は存在するのかもしれない。

また、「千の風になって」のように、あらゆる存在の影響は、無限の到達距離を持つ万有引力と同様に、永続的なものだとも信じたい。誰かが、あるいは何かが、生み出した影響は、薄まることはあっても決してゼロにはならないと思うのだ。命の繋がりの中では、あるいはこのような微小な影響の蓄積が、知らず知らずのうちに大きな役割を果たしているのかもしれない。

こう考えると、人も、人以外の生物も、あるいは無生物も、そこには何らの本質的違いなど無いと思う。だから、あらゆるものに敬意を持って生きて行きたい。

※私は生物学や宇宙論に関する専門家ではなく、その知識や理解は限定的です。あくまでいち素人が書いた駄文としてお読み頂ければ幸いです。

Categories: 雑想

Category: 雑想

Trackbacks

Trackback URL: