2010.03.12

雑想 : 「千の風」問題。新井満氏は酷いが南風椎氏の主張もまた変...

Twitter でも話題にのぼっていたが、「千の風」の翻訳をめぐって、南風椎氏が新井満氏を叫弾している。南風椎氏は、英語詩 "Do not stand at my grave and weep" (もしくは "A thousand winds") を、『1000の風』という邦題で初めて日本語訳し、書籍化した方だ。この詩が書籍化されたのは、南風椎氏のものが日本初というだけでなくおそらく世界初なのだという。

"Do not stand at my grave and weep" の翻訳としては後発である新井満氏の『千の風になって』が有名だけど、新井満氏の訳は一種の超訳であり、対する南風椎氏のものは出来る限り素直な直訳という形になっている。

このように原詩が同じでも翻訳形態がまるっきり異なるわけだが、南風椎氏が言うには、新井満氏の翻訳は南風椎氏の翻訳のパクリなのだという・・・。

南風椎の「森の日記」より:

「1000の風」が「千の風」になっているだけ。あとは、ぼくの訳詩の言葉の順番を変えたり、省略したりしているだけの詩に思えた。

私は当ブログで『「千の風になって」原詩の原詩 (A hidden message in Do not stand at my grave and weep)』として、"Do not stand at my grave and weep" の作者と言われているメアリー・フライさんのバージョンを紹介させて頂いていることもあり、この件に関してコメントさせて頂きたいと思う。

ちなみに、メアリー・フライさんのバージョンを紹介している国内ウェブページとしてはオーママミアさんの『「千の風になって」の詩の原作者について』がおそらく最も知られている思われ、公開時期も私の記事より先行している。

新井満『千の風になって』は南風椎『1000の風』のパクリ!?

南風椎の「森の日記」より:

正直に言おう。ぼくもあれは完全なパクリだと考えている。

一例をあげよう。翻訳の一番重要な個所だ。

英語の原詩にはこうある。

  I am a thousand winds that blow;

普通に翻訳すれば、こうなるだろう。

  私は吹いているたくさんの風だ

ぼくはこう翻訳した。

  私は1000の風になって
  吹きぬけています

「1000 の風」とあえて直訳にしたのがミソだった。

新井さんの「訳」はこうなっている。

  千の風になって
  あの大きな空を
  吹きわたっています

「千の風」がパクリであり「になって」もパクリだ。

確かに、南風椎版と新井満版は似た部分が少なくない。「眠ってなんかいません」の部分などはそのままだ。強い影響を受けているし、パクったと言い得る部分もあるのだろう。

しかし "a thousand" についてはどうだろう。これを「たくさんの」と訳すのが普通だとはどうしても思えないし、「千」は妥当な訳だとは思うけど、私としては「1000」という訳は大嫌いだ。

(※ "a thousand" -> 「1000」 の部分は嫌いですが、その他の部分は良くできてると思います。特に「私はすばやい流れとなって/駆けあがり~」の部分は感心させられました。この辺りは英語的に変な感じがして訳しにくいと思うのですが、この訳は納得です)

英語と日本語は違う言語であり、言葉のニュアンスの違いから直訳ではうまく意味が伝わらないことも多く、あえて表現を変えたりすることも多い。

葉っぱのフレディ

一例を上げると、一昔前に流行った絵本『葉っぱのフレディ』なんかがそうだ。この本の原題は "the Fall of Freddie the Leaf" なのだが、これを正しく邦訳することは多分無理だ。

直訳すると、「葉っぱのフレディの落下」だが、"fall" には「秋」という意味がある。しかし "fall" は "the fall of the leaves" に由来しており、「落葉の季節」という意味であって、実りの秋、紅葉の秋といった印象が強い「秋」とはまるで別のニュアンスを持つ。だから「葉っぱのフレディの秋」では意味が違ってしまうし、かといって「葉っぱのフレディの落葉の季節」では、日本語としてどうかと思う。

この "the Fall of Freddie the Leaf" には、みらいなな氏による『葉っぱのフレディ』の他、それに先行して三木卓氏による翻訳も世に出されている。原著とは違いが大きいみらいなな版に比べて、三木卓版は直訳に近い形となっているのだけれども、三木卓版の邦題は単に『フレディ』となっている。なるべく直訳したいが、原題の翻訳は無理だと判断したのだろう。

そして、基本的には直訳である三木卓版にも原著とは異なる重要な点がある。

原著では "Spring had passed. So had Summer." で始まり、以後は "Freddie, the leaf, had grown large." のように、過去完了形が多用された形で話が進行する。しかし、紅葉の季節が過ぎ、落葉の季節になると、"All the leaves became frightened." のように、それまでは過去完了形が用いられていたような部分が、過去形へと変化する。

つまり、この物語の舞台は落葉の季節であり、落葉の季節を迎えた葉っぱたちが春・夏を振り返っているのがそれ以前の部分ではないか、というのが私の理解するところだ。

しかし、三木卓版ではこの違いはうまく描写されていない。原著のこのような表現は、その題名で、舞台が「落葉の季節」であることを予め謳っているからこそ活きてくる表現。しかしその原題名をうまく和訳出来ない以上、本文での過去完了形と過去形の違いを正確に和訳しようとしても、それが上手く活かせず、むしろまわりくどくなって平易さを損なうのかもしれない。

三木卓版では過去完了形と過去形の違いが訳出されていないのが残念、という意見も見かけたが、私個人としては、悩んだ末の妥当な訳ではないか、と思う。

このように、ちょっとした表現にも大いに悩むのが文学作品の翻訳というものなのだろう。

なお、みらいなな版はどうしようもない誤訳で出版する価値すら無い、という意見も目にする。原著を正しく理解するだけの英語力や、原著の宗教的背景への理解が足りないから、いい加減な創作で穴埋めしてできたのが、みらいなな版だというのだ。でも私としてはそうは思わないし、よく出来た訳だと思っている。

平易な表現の原著に対し、みらいなな版は表現が硬く子供には解りづらい、という意見もある。そもそも私は原著がさほど平易だとは思わない。過去完了形と過去形の使い分けとかは、かなり凝った作りで、正確に理解するのは英語ネイティヴであっても子供にはやや難しいのかもしれない。しかし子供の理解力は大人が想像するより高かったりするものだ。みらいなな版の訳が子供には難しすぎる、とは思えない。

A thousand

では、"a thousand" はどうか。英語の "thousand" の由来を調べてみると、

probably ultimately a compound with indefinite meaning "several hundred" or "a great multitude" (with first element perhaps related to Skt. tawas "strong, force").

つまり、もともと「数百」あるいは単に「凄くたくさんの」を意味するあいまいな言葉で、数字の「1000」を意味するわけではなかった。そして、現在でも数字の「1000」と併せて、「凄くたくさんの」という意味でも用いられている。なるほど、南風椎氏の言うように "a thousand winds" は「たくさんの風」と訳すこともできるのだろう。だがしかし。

じゃあ日本語の「千」ってどうなのだろう。広辞苑によると、

数の名。百の10倍。また、数の多いこと。

日本語の「千」も、やはり英語の "thousand" と同じように、単に数が多いという意味があるのだ。そして、その意味で用いられることはごく普通であり、例えば「千にひとつ」というのは単純に「ほぼありえない」という意味であって、「1/1000」という意味ではないだろう。これはいちいち意味を調べなくても、千という言葉の使われ方を考えれば自然にわかることでもある。

英語に戻ると、"one thousand" ではなく "a thousand" になっている点が重要だろう。"one thousand" は「1つの千」すなわち「一千」あるいは「1000」という意味だ。しかし "a thousand" の "a" は「ひとつ」という意味ではない。英語では名詞には必ず冠詞をつけるというルールがあり (←ちょっとこの説明は不正確か)、"a thousand" の場合、単に "thousand" という意味だが、(英語の文法ルール上、) 冠詞を付けなければいけないので "a" を付けた、という形、と言うのが私の理解。だからこの "a" は「ひとつ」とは違うと思うのだ。(もちろん "a thousand" が "one thousand" と同様に数字の「1000」を明確に意味する場合もあるが、それは文脈次第。)

よって "a thousand" は「千」とするのが最も妥当、というのが私なりの結論だ。素直な直訳だし、ニュアンスも含め意味がおそらく同じというだけでなく、アルファベットの "t" と漢字の「千」は形も似ており、"thou" と「せん」は音の響きも似ていたりもする。一方、 「1000」では数字の「1000」という感じが強くなってしまうため、私は嫌いなのだ。

南風椎氏は、"a thousand" が数字の「1000」では無く多量のという意味だ、という点に悩みすぎて、日本語の「千」の意味合いについて考える余裕がなく、「たくさんの」でもなければ「千」でもない「1000」という訳語になってしまったのかもしれない。一つの点に悩みすぎると総合的な視点を欠いてしまうのはよくある話だ。プロの翻訳者だからこそ悩みぬき、これにハマってしまったのかもしれない。

よって、南風椎氏が、この詩において最も重要な部分である "a thousand" を新井満氏が「千」としたのは、自作の「1000」のパクリだ、と言っている点については、あまりに根拠が薄弱な話だと思う。さんざん悩んだ末の訳だったので思い入れがあるのだろうけど。

新井満氏のやり方はおかしい、とは私も思うし、一言言いたい気持ちもわかる。でも、あんな感じで感情むき出しで書くのはどうだろう。

"a thousand" の訳語に関する指摘もおかしければ、新井満氏が「千の風」を商標登録したことに関して、新井満氏が商標による収益の全てを「基金・千の風」に寄付していることについて触れていない点にも違和感を覚える。このような事実は隠さずに触れ、その判断は読者に任せるのがフェアなやり方ではないだろうか。(3/21追記) 知らなかった、で済まして良い問題でも無い。相手を批判する以上は、相手を知る努力をすべきだろう。 (3/21追記はここまで)

(3/21追記, 3/23さらに追記) もう一点、南風椎氏が触れていないことがある。新井満『千の風になって』(ISBN4-06-212124-7)の巻末『「あとがき」に代える十の断章』を読んでみると、新井満氏がこの詩を知るきっかけとなったのが南風椎『1000の風』であることがしっかりと明記されている。この事実を知っているのと知らないのとでは、この問題に関して受ける印象は大きく異なるだろう。

南風椎の「森の日記」より:

「南風椎の本がなかったら自分があの詩に出会うことはなかったし、本も歌も作れなかった。これからは取材のときも講演でもそのことをかならず最初に言います」
と何度も約束をして新井満さんは帰っていった。
約束が守られているのかどうかは、知らない。

少なくとも、私の手元にある新井満氏の本の中では、これは果たされている。この本は、新井氏が南風氏に対しこの約束をしたときには、すでに出来ていたものではないのか? という気もする。しかし南風椎氏はその事実には触れない。ただ一言、「知らない。」 本をちゃんと読みもせずに批判してるのか。あるいは知っていて書かなかったのか。どちらにせよフェアなやり方とは言えないし、正直、酷いと思う。(3/21追記、3/23修正はここまで)

繰り返しになるが、新井満氏のやり方はおかしい、とは私も思うし、新井満氏の肩を持つ気は全く無いのだが、南風椎氏の書き方は変な印象操作が含まれるように思えてしまい、私には全く共感出来ない。この書き方では、新井満氏に反感を持つ人の共感を得ることは出来ても、そうではない、単に "a thousand winds" が好きな人には悲しく思えるだけでは? あれじゃ自己満足だよ。もっと冷静な書き方があると思うし、そのほうが広い共感を得られるのではないかと私は思うのだけれども。

以上、偉そうに書いてしまったけれども、私は日本語も英語も専門的に学んだことはなく、仕事の一部として英文和訳を手掛けることは普通にあるけれども英文学は専門外で、そもそも英文学を読む事すら稀であり、英文学の翻訳に関してはただのいち素人に過ぎない、ということは断っておきます。色々間違ってるかもしれないので真に受けすぎないで下さいね。

盗作騒動といえば松本零士氏と槇原敬之氏の間で裁判にまで発展した「999盗作騒動」が思い出されますが、私としては今回の「千の風~」の南風椎氏の立場より、「999盗作騒動」での松本零士氏の方の立場のほうがずっと共感できます。松本零士氏は裁判では結局負けましたけどね。ごめんなさい、私、松本零士ファンなんです(汗

「999~」の方は、槙原氏が松本氏のフレーズを知っていた可能性は低いし、たとえ知っていたとしても前後が違うので意味合いは相当に異なり、盗作には該当し得ない、という判断でした。

それを踏まえると、今回の「千の風~」のケースでは、万一裁判に発展したら、負けるのは南風椎氏なのではないかと思います。盗作は法律上、「知っていた」かつ「同一性がある」という両条件を共に満たして初めて盗作にあたります。今回のケースでは「知っていた」のは確かだとしても、法律上の「同一性」についてはまず認められないと思うので、盗作には該当し得ないと思いますし、それを堂々と「パクリだと思う」と宣言するのは根拠不十分かつ公益性にも欠け、名誉毀損に該当する可能性もあるのではないでしょうか。

これもただの素人の雑想に過ぎませんけれども。

「千の風になって」原詩の原詩

ちなみに、この "a thousand winds"、南風椎版や新井満版で原詩として紹介されている原詩は、いくつもある原詩のバリエーションのうちの一つであり、元々の原詩では無いようです。元々の原詩とされているものの紹介がこちら:

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