2012.01.21

エンターテインメント : 小説「とらドラ!」に、世の夢と現を想う

小風邪が長引き、仕事も進まず、ちょっと欝入ってます。本格的に体調崩すと非常にまずいのでなるべく布団に潜り込んで安静に努めていましたが、何もしないよりはせめて本読もう、と小説「とらドラ!」読んでました。これ読むと自分の過去の色んなことがリアルな気持ちごと思い出されてしまった。特に5巻以降が面白いがその高いクオリティゆえに心傷を負いかねない本かも。



人間は誰でも、幸せを夢見るだろう。しかし、

『人生、おもいどおりにはなんねーぞ!!!』(小説「とらドラ8!」)


なのだ。だから、人は、他人の中に、あるいは物語の中に、自分には実現できないであろう幸せを夢見る。

「とらドラ!」(作: 竹宮ゆゆこ) は、ラブコメというジャンルのライトノベル (本編 全10巻 完結+スピンオフ3巻) であり、またそれを原作とするアニメーション作品 (全25話) である。

ラブコメには「お約束」がある。それは、「ハッピーエンドで終わるラブストーリー」だということだ。

このラブコメにおいて、登場人物たちは時に試練にぶつかる。挫折も味わう。破滅に向かいそうになることもある。だが、ラブコメには随所に「フラグ」が用意されている。それは、最悪な状況を迎える前後に、それでも最後には幸せになるのだ、ということを匂わすようなさりげない演出であり、この手の「フラグ」は期待を裏切らない。読者や視聴者はそれを見つけて安心し、それでも訪れるであろうハッピーエンドを信じて、この夢から醒めることがなく、夢を楽しむことができるようになっている。

俺は読書家ではないし、アニオタでもない。ましてや、ラブコメを中心に読んだり見たりしているわけでもない。よって、あまり多くのラブコメを知っているわけではないが、俺は、ラブコメの基本構造についてそう理解している。

多分、例外も多いのだろう。しかし、深夜にCS付けたらたまたまやってた、という形で知ることになったアニメ版「とらドラ!」は、とても切なく、辛いお話だったが、この「お約束」に忠実な作品のように思えた、というのが、先日、当ブログ『アニメ「とらドラ!」の星空』で書いたことだ。

該当場面が原作ではどう表現されているのか気になり、そして次のレビューを読んで興味が深まった。



物語の設定や話の筋は、アニメ版と全く変わらないようだが、引用部の表現に興味を持った。よって、原作小説も揃えて読んで見ることにした。そういや、ラブコメなるジャンルを小説という媒体で読むのは正直、初めてだったかもしれない。

以下は、アニメ版全25話を見た後、原作小説の本編全10巻を通して読んだ後、考えを整理するための私的まとめみたいなものです。アニメ版と対比しつつ、整理してみました。ネタバレ全開のロングレビューですのでご注意を。

序: そういうふうになっている。

──この世界の誰一人、見たことがないものがある。
それは優しくて、とても甘い。
多分、見ることができたなら、誰もがそれを欲しがるはずだ。
だからこそ、誰もそれを見たことがない。
そう簡単には手に入れられないように、世界はそれを隠したのだ。
だけどいつかは、誰かが見つける。
手に入れるべきたった一人が、ちゃんとそれを見つけられる。

そういうふうになっている。

(「とらドラ!」原作小説 第1巻 冒頭より)

起: 物語の基本構図

タイトル「とらドラ!」は、虎と竜 (ドラゴン) という意味。

本作のヒロイン、逢坂大河は、高校2年生ながら身長わずか145cm (公証値。実際にはそれよりやや低い) という小柄な体に、類稀な美貌を備えている。可憐な見かけとは裏腹に、その性格は凶暴で、相手構わず不機嫌を振りまき、運動能力も抜群に高い。小柄な虎こと「手乗りタイガー」とあだ名されて畏れられている。でも、生来のドジで、よくすっ転ぶ。そして本当は優しく、泣き虫。実の両親の離婚後、父と暮らしていたが、父の再婚後は継母との折り合いが悪く、今は父に与えられた豪華マンションで一人暮らし。だが家事は全く出来ず、3食を主人公、高須竜児に依存するようになる。大食漢。学業では成績優秀。

底抜けに明るい櫛枝実乃梨 (みのり) は、そんな大河のよき理解者であり、最大の親友。大河は、この大河の実乃梨に対しては、猫のように甘える。

主人公の高須竜児は、家事全般を大いに愛する、特に料理と掃除が大好きな、ごく普通の優しい高校生。勉強も好きで、成績は優良。2DKの借家に、母、泰子 (やすこ) と二人暮し。大河の住む豪華マンションと、高須家は隣同士。

康子は、17歳の頃、まだ胎内に居た竜児と共に家出した。以来、一度も実家には帰らず、たった一人で竜児をここまで育てきた。今の職業は、スナックの雇われママ。いつも夕食後に出勤し、朝方に帰宅する。稼ぎは悪くないが、ふわふわぽや~んとした性格で、家事全般はあまり得意とは言えず、今では家事は全て竜児の担当となっている。

竜児の父は、ヤクザであり、竜児が生まれる前に、泰子の元から去ってしまった。竜児は一度も会ったことがなく、生死すらわからない。この父親そっくりの恐ろしい目つきが、竜児のコンプレックスとなっている。しかし泰子は今でもこの父親のことが大好きなようで、父親そっくりになってきた竜児の姿を大喜びする。その母の様子を見て、また竜児は傷つくのであった。

竜児は、大河の親友である実乃梨に恋心を抱いている。一方、大河の優しく、傷つきやすく、泣き虫な素顔に気付いており、そんな大河のことが放っておけず、とても大切にしている。しかしそれは恋愛感情とは違う、と思っている。共通点のある家庭事情への同情もあって父親気分、擬似家族感覚。

北村祐作は、竜児のよき理解者であり最大の親友。ルックスは平凡だが、生徒会副会長と男子ソフトボール部の部長を兼任する文武両道の優等生。しかも、誰とでも気さくに接し、相手のことをよく理解し、悩む人が居ればしっかり手を差し伸べるが、しかし必要以上には踏み込まない。まさに好青年であった。しかし自分のことになると鈍く、ちょっと抜けているような部分もあって、それも含めて皆から親しまれている存在だった。

大河は、そんな北村に恋心を抱いている。だが、大河にとって一番大切なのは、いつも自分の面倒を見てくれている竜児であった。その竜児のことが好き、という本心には、全く気付いていない。その気持ちと向き合うことを酷く恐れ、心の奥底に閉じ込めているから。そして、大切な竜児と、大切な実乃梨がうまく結ばれることを願い、そのために行動する。

実乃梨は、大河の本心を見抜いている。そして、竜児のことを知るにつれ、大切な大河を、竜児に任せたいという思いが強くなる。しかし、一方で竜児に対する恋心も芽生え始め、気持ちの整理がつかなくなってくる。

北村は、大河が自分のことが好きだと告白してきたときに、本当は竜児が好きなのだという大河の本心を見抜いた。以後は、大河と竜児のよき友達として、それを見守るという立場を取っており、深くは干渉して来ない。

1学期の途中に転校してきた川嶋亜美は、北村の幼馴染にしてプロのファッションモデル。普段は皆から好かれる良い子を演じているが、本性は性悪で毒舌。クラス内ではそんな亜美の本性を知る人は少ないが、しかし性悪であっても、大人の世界で生きてきたゆえに優れた人間観察力を備えており、毒舌ながらも、時に鋭い正論を付いてくる。本当は、優しい。だから、竜児や北村は、そんな亜美のことが嫌いではなかった。

竜児にしばしばちょっかいを出してくる性悪の亜美は、大河とは犬猿の仲。だが亜美は、そんな大河のことが大切なのであった。

実乃梨と竜児が接近するにつれ、やがて訪れるであろう竜児との別れへの実感を強め、大河は傷ついていく。その大河の姿に、亜美はいつも気付いていた。北村同様、亜美はそれを見守るだけという立場を取ろうとするが、しかし北村とは違って、何もせずにはいられないのだった。

これが、物語の基本構図。話の内容は、原作とアニメ版は若干の違いはあるものの、ほとんど同じだ。物語の前半はこの基本構図を保ったまま、ドタバタコメディが展開されていく。

ただ、原作の序盤を読んでみて、アニメ版とは全く別の印象を受けた。というのは、原作の本文においては、竜児は大河の顔つきや体つきに、大人っぽさを見出していることが、明確に示されているから。本文の描写は、アニメ調の絵柄の大河とはかけ離れているように思えて、強い違和感を放つ。

だから、少なくとも原作においては、竜児は父親気分ながらも、大河は本当は子供なんかじゃないとちゃんとわかっている。だから、こんな擬似家族関係は、成立し得ない。いずれ壊れてしまうのだ、と、早い段階から示唆される。明るいドタバタコメディが展開される中で、読者を不安にさせるフラグが、立てられてゆく。

原作は、1巻はよくまとまってますが、2~3巻はキャラ紹介的な内容で、ちょっとタルいかも。本格的にストーリーが動き出すのは、4巻後半以降です。4巻後半以降は本当に面白い。

承1: 別荘編

原作では4巻、アニメ版では第9話「海にいこうと君は」、第10話「花火」。

夏休み。竜児と大河、実乃梨、北村、そして川嶋亜美の5人は、海辺にある川嶋亜美の別荘に、2泊3日で遊びに来ていた。このバカンスで、それまではただの友達だった竜児と実乃梨は、大河の助けもあって少し接近。

2日目の夜、遠くで花火大会が始まった。大河は、寄り添って花火大会を見る竜児と実乃梨の様子を、見守っていた。それを見て寂しそうな大河の姿に、亜美だけが気付いていた。

原作とアニメ版では、筋は同じだが、ラストシーンの描写が全く違う。

アニメ版では、竜児と実乃梨の様子を少し離れて見た大河は、ただ静かに視線を下げるだけだ。さりげない描写。

しかし、原作小説ではこうなのだ。原作では、大河は竜児のすぐ近くからその様子を見ていて、花火大会が始まったとき、

 大河はゆっくりと、上げかけた腕を下ろしたのだ。花火すごい。ねえ見てる、ねえバカ犬──そんなふうにいつもならつかめたはずのTシャツの裾をつかめずに、大河の手はそのまま落ちた。
 そして、やっと本当に理解できた。自分は全然わかっていなかったのだ。
 そうか。
 ──こういうこと、なのか、と。


そして原作はこう続く。

「......っ!」
 目が覚めたとき、大河は一瞬そこがどこだか理解できなかった。奇妙な夢を見ていた気がして、夢の中の気分に囚われたまま、なにか恐ろしいところにひとりぼっちで取り残されたみたいに怯えていた。


帰りの電車から、降りる場面の描写だ。だけど、それは大河がそうしようと望んで行動した結果、そうなろうとしているのだ。だから、大河は思う。

 いいの。
 これで、いいの。
 あと何日かで、夏休みが終わる。そうしてまた、いつもの生活が始まる。
 変わらないメンツ、変わらない教室、変わらない朝と夜。そうして、すこし、変わったなにか。
 しかし大河は、それでいい、と思うのだ。だってよくない理由がない。


アニメ版では、電車の中で寝ていた大河が目覚めるシーンは無い。駅の外で、旅行を終えた大河は、少し寂しそうな表情を浮かべ、いつもよりちょっと不機嫌。それでもスーパーに向かう竜児を追いかけ、寄り添って歩いて行く。そういったシーンで終わる。

でも原作では、大河は駅の外に出た後、冷たい目をして座り込んでしまう。そんなシーンで、原作4巻は終わる。寄り添ってスーパーに向かう描写は無い。

これはどう解釈したって、破滅に向かうフラグにしか思えない。しかも、破滅の先の幸せが見えないような、ひたすらシリアスなフラグ。

承2: 文化祭編

原作では5巻、アニメ版では第11~13話。

夏休みを終えれば、文化祭。その準備が進む時期、大河の父親が、大河の元に訪れた。曰く、大河と折り合いの悪い継母とは、もう離婚するのだという。その後は、大河と父娘2人でまた暮らしていきたい、と。その後しばらく父は大河の元に通い続けた。大河の父は、よくがんばっているように竜児には見えた。忙しいはずなのに、毎日のように夜は大河を迎えに来て2人で外食に出かけていたのだ。大河も、それを楽しんでいるように見えた。

それを知った実乃梨は、ものすごい形相で怒りを露わにする。だが竜児は、同じような形相でその実乃梨に口論を売るのであった。

そして大河の父は、文化祭に訪れると約束していた。だが、結局、現れなかった。文化祭最後のステージイベントであるミスコンテストの最中、大河の父から竜児にメールが届き、竜児は大河が再び捨てられたことを知る。そして悟ったのだった。父が居ない自分の寂しさが、判断を曇らせていたことに。自分には父が居ないから、父娘が再び一緒に暮らすことは良いことなんだと、思い込もうとしていた。だから、大河の父が本当に真剣には大河のことを考えていない、ということを示唆する事実はいくつもあったのに、それらには全く気付けなかったのだ。

ミスコンに出場した大河は、客席に居たそんな竜児を見つけ、その様子から全てを悟った。そしてそのステージ上で、生来のドジを発揮し、見事に転倒した。だが大河はそんな逆境において、自らの意志で立ち上がった。いつもの虎の威光を眼に称え、大迫力のその姿を、その咆哮を、観客に見せた。惜しみない拍手が送られ、大河はミスコンに優勝した。

ミスコンが終わると、ミスターコンテスト。それは、屋外敷地内の特設コースでの福男レースだった。この優勝者が、ミスコンの優勝者である大河に、ティアラを授けるのだという。名称はミスターコンテストだが、男女問わずの自由参加。

一刻も早く大河の元に駆けつけたい竜児と実乃梨は、これに出場。最後は手を取り合い、同着での優勝を決めた。

そんな2人の様子を大河は、しっかりと立って見守っていた。そして大河は心の中で思う。私は大丈夫だと。一人で立ち上がれるのだと。だから、そんなに私のことばかり心配しなくても良いのだと。私は、一人で生きていけるのだと。

キャンプファイヤーの炎が燃え上がっている。一緒に踊って欲しい、そう言おうとした竜児を無視し、大河は実乃梨に飛びついた。実乃梨にいつものように甘えた大河は、亜美の姿を見つけて、ずんずんとその方へ歩いてゆく。亜美と大河のいつものようなじゃれ合いが始まる。

それを少し離れて見守りながら、竜児と実乃梨は、大河の父を巡る互いの非礼を詫びていた。大河について、その父について、2人は色々なことを話し合った。

北村が大河に歩み寄り、ダンスを申し込む。「こんな夜には、友達と踊りたい。」という北村に、大河は柔らかな笑顔。そして何度も「ありがとう」と繰り返した言った。北村は、その言葉に、「変だぞ?」とは言ったものの、しかしその真意を深く問おうとはしなかった。そして2人はしばし、見つめ合って回っていた。

この一連のシーンの描写は、原作とアニメ版でそう大差ないかもしれない。

だが、立てられたフラグが違う。実乃梨のことも竜児のことも失って、家族からも捨てられたままで、また一人になることへの恐怖を、ここまでに原作は克明に描写してみせている。そしてそれでも生きていく、という覚悟も。

そして、キャンプファイヤーの炎を囲んで、大河も含めクラスの皆が盛り上がる中で、原作5巻は、次のように結ばれる。

 笑うたびに走る痛みも、このつらい夜を乗り切れれば、多分、きっと、本当に──やがて大丈夫になっていくと思うから。


どこが大丈夫だと言うのだろう。大丈夫、とそう何度も思おうとした大河は、全然大丈夫なんかじゃないのだ。

アニメ版では、原作の結びのこの言葉を、大河ではなく竜児の言葉と解釈し、表現も少しソフトに改めることで、あくまで「切ない」お話として見せている。だが原作のこの言葉は、どう考えたって大河のものだろう。こんなものは、もはや「切なさ」なんかじゃないのだ。正真正銘の「残酷さ」ではないのか。

だから、本記事冒頭で紹介した書評のコメント欄の中で、こういう指摘があったのだ。本作の「とらドラ!」というタイトルが隠し持つもうひとつの意味は、tragedy drama すなわち悲劇の物語、ということではないかと。

ただし、アニメ版の解釈が間違っているわけでもないと思う。表現が少しソフトに改められたアニメ版のそれは、あのときの竜児の心情としては的を得ている。

承3: 生徒会長選挙編

原作では6巻、アニメでは第15話「星は、遠く」および第16話「踏み出す一歩」。いよいよ、先日、当ブログ『アニメ「とらドラ!」の星空』で書いたエピソードだ。

これに先立つアニメ第14話は、原作のスピンオフを参考にしたアニメオリジナルエピソードで、いわゆるボトルショー。このエピソードに、アニメ版はこんなシーンを加えている。いつもの、大河と竜児と泰子の3人の食卓で、泰子は大河に言う。うちは、もう3人家族なのだと。

原作でも、泰子はこの言葉を言う。しかしそれは、大河が居ないときに、竜児に対して。原作の泰子は、これは大河に対して自分が言うべきではない言葉だと思っている。

ある日、次期生徒会長になるべき優等生、北村祐作が、突如として髪を金髪にし、生徒会長になりたくないと言い出す。誰にも理由を言おうとしない祐作。大河は、その祐作の力になることができないでいた。

竜児の家に家出してきた祐作。大好きな北村と一緒になり、大河は挙動不審に陥りながらも大喜び。3人でしばらく一緒に遊んだ後、皆眠ってしまった。深夜に目覚めた竜児と大河は、北村の寝顔を見てしまう。先ほどまで陽気に遊んでいた北村は、一人静かに泣いて、泣き疲れて、眠っているのだった。

2人で歩く夜道で、大河は北村を思って泣いた。泣き続けた。北村の悩みに気付けなかった自分を恥じ、北村への思いを語った。

見上げるは、オリオン座。その中心には3つの星が寄り添って並んでいる。一見近くに見えるその星は、実際には遠くはなれている。その距離に、大河は自分と北村との距離の大きさを思う。それでも、自分は北村のことをもっとよく知りたいのだと、大河は決心した。

アニメ版でのこのシーンの詳細は、『アニメ「とらドラ!」の星空』に書いた通り。

アニメ版では、これに先立つ第14話で泰子が大河に言った、うちは、もう3人家族なのだという言葉が連想される。オリオン座についてちょっと調べれば、その3つの星が、見せかけ上近いだけではなく、同じ星雲から生まれて寄り添う兄弟星なのだともわかる。だからこのオリオン座の3ツ星は、大河と竜児と泰子との、約束された未来を示唆するフラグなのだ、とも解釈できる。

だが原作のそれは全く異なっていた。原作では、その3つの星が仲良く並んで見えるという点なんか問題にしていないのだ。そうではなく、この地球に居る自分と、夜空に見える星との距離を思っている。そして大河は言う。今見ているあの星は、実はもう堕ちているかもしれないと。でもそのことがわかるのはずっと後になってから。だから、見えてはいても、もう無くなっているのかもしれないと。

その距離に、大河は自分と北村との距離の大きさを、人と人が分かり合うことの難しさを思っているのだ、原作では。後のシーンでは、こうも付け加えられる。同じ地球に生きていれば、例え遠く離れていても、同じ星が見えるのだと。

どうも、これもまた、別れのフラグに思えてしまう。

北村は復活し、新生徒会長の座についた。それを見届けた前生徒会長、狩野すみれこそ、北村の想い人であった。生徒会長選挙の後、すみれが予定を早めてアメリカに旅立ってしまう、というのが北村がグレた原因だった。北村は全校生徒の前で勇気を持ってこの狩野すみれに愛を告白したが、しかしすみれはその答えをはぐらかしてしまう。北村は、全校生徒の前で、失恋した。

そして、そのすみれの態度に、大河は激怒した。北村の本気の告白に対し、すみれは本気の答えを返さなかった。大河は木刀を握りしめ、すみれの教室に殴り込んだ。なんとすみれは竹刀を手にその挑発に応じた。戦いは拮抗し、2人とも生傷を増やしていった。その戦いの中で、大河はすみれを責め続けた。北村に本心を伝えられないお前は弱虫なんだと。図星を突かれ、すみれの心は折れた。本心が漏れてしまった。本当は北村のことが好きなのだと。でもそんなことを言うと、あの北村は自分に付いて来ようとする。だから言えないのだと。すみれは、泣いた。

事態を収めるために駆けつけていた北村に、すみれは気付いていなかった。北村はただ、すみれに感謝の言葉を述べ、深々と礼をした。すみれが、まだまだ子供だと思っていた北村はしかし、すみれが思うよりは大人だった。

すみれは、アメリカに旅立っていった。宇宙飛行士を目指すために。大河は、退学こそ免れたものの、二週間の停学処分となった。そして冬の夜空には、オリオン座が輝く。

結局、これはすみれと北村との別れのフラグだった。しかし離れていても相思相愛というフラグでもあった。だが、竜児と大河の明るい未来を示唆するフラグではなかった。

この戦いに居合わせた多くの人は、大河の気持ちを知った。北村のことが、本当に好きなのだと。実乃梨も、亜美も、そこに駆けつけていた。実乃梨はその事実を知って、混乱し、動けなくなっていた。そんな実乃梨に、亜美はつい嫌味を言ってしまう。「罪悪感は、なくなった?」と。

そう言ってその場を去った亜美は、そう言ってしまったことを深く後悔していた。亜美は、竜児のことが好きであった。でも、実乃梨と竜児の距離が縮まるにつれ、その度に傷つく大河の姿を、亜美は見てきた。それは、見るに耐えないものだった。竜児に想われている実乃梨への嫉妬もあった。だからって。

転: クリスマス編

原作7巻、アニメ版は第17話「クリスマスに水星は逆行する」、第18話「もみの木の下で」、第19話「聖夜祭」。

実乃梨にとって、大河のことは何より大切な存在だった。その大河は本心では竜児が好きなのだと実乃梨は思っていた。でも、大河は北村のことが本当に好きという。そして自分は、竜児が好きなのだった。気持ちの整理がつかない実乃梨は、徐々に壊れ始めていた。竜児のことを、避けるようになっていた。

大河は、クリスマスを前に「いいこ」になっていた。サンタさんが見ているから、いいこにしてるんだと。大河は、クリスマスが大好きだと言う。クリスマスには、みんなが笑顔だから。その輪の中に居れば、自分も笑顔になれるかもしれないから。

そして、児童擁護施設宛に、サンタ名義でプレゼントを贈るのだった。世の中には、あなたを見守っている人がちゃんと実在するのだと、そう伝えるために、そうするのだと。だが、大河は続ける。そんなことは、自己満足の偽善に過ぎない、とわかっているのだと。自分は、サンタが自分のことを見守ってくれていると信じたい、そのために、こんなことをしているのだと。自分は、子供の頃に、本当にサンタに会ったことがある。それはやっぱり夢だったのかもしれないけど、それでも真実だったと信じたいのだ、と。子供の頃のその記憶が、私にとってはクリスマスの唯一の楽しい思い出だし、今でも私にとっての救いなのだと。

 竜児の胸には、冷たい沈黙が降り積もる。どうしたって、考えてしまう。「誰かが見ている」と信じたがる奴は、つまり、「誰にも見られないで」生きてきた奴なのだ。
 (中略)
 この深すぎる傷を、深すぎる孤独を、覗き込んで感じたのは恐怖に近い心地だった。絶望にも似た、底なしの闇だった。
 (中略)
 大河は笑ってパスタを食べる。クリスマスが大好きだと笑う。いいこでいると笑う。......笑えるのは、きっと、麻痺しているからだ。全身を苛む痛みの中で放置され続けて、それが普通だと思いこんでしまっているからだ。
 (中略)
「夢だもん、いいよね。現実じゃないんだもん。現実にいる誰かにすがっているわけではないんだもん。これは夢、ファンタジー、想像のこと。だから......それを信じて、誰かが見ていると信じて、いいこに振る舞ってみたって、それは弱さではないよね」


そして原作は、このシーンをこう結ぶ。

 数十センチの距離で今もきっと苦しみ、もがいているというのに、この手ではどうすることもできない奴のことはどうすればいいのだろう。せめて助けてと叫んでくれれば──そのいまだ血を流す大きな傷に、本人か気づいてくれれば、なにかが変わるかもしれないのに。
 こんな奴もが、生傷を開いたままで一人で歩いていかなければならないほど、それほどに世界は残酷にできているのだろうか。だとしたらやっぱり神様も、サンタも、この世に存在していない。救いなど──見ている誰かなど、いない。


迎えたクリスマスイブ。夕方から、学校の体育館で、生徒会の主催によるパーティーが開催された。大河と竜児はその準備と運営を手伝っていた。パーティのオープニングステージ。大河は亜美と共に歌とダンスを披露。熱気に包まれる会場の中に、実乃梨の姿はなかった。出番を終えた大河は、姿を消した。竜児に何も告げないまま。

大河が居ないことに気付いた竜児は、亜美を見つけて問う。亜美によると、大河は帰ったのだという。実乃梨を呼びに行って、その後は自宅でサンタを迎える準備をするのだという。

実乃梨の家に寄り、竜児の待つパーティーに行くように実乃梨を説得した大河は今、広いマンションのリビングで一人、小さなクリスマスツリーを眺めていた。もみの木をイメージしたガラスの容器の中に、キャンドルの炎が揺れていた。とても綺麗だった。その中で大河は、自分はきっと、永遠に一人なのだと思っていた。それが自分の運命なのだと。

 なんて人生。我ながら思うけれど、「誰か」が見ていてくれると考えれば、まあまあやっていける気がしていた。もちろん、そんなのは夢でしかないとわかっている。わかっているからこそ、それを信じることを自分に許しているのだ。


ソファにもたれ、マフラーに鼻を埋めて、かぎ慣れた匂いに包まれると、やがて大河は眠りに落ちていた。そのカシミアのマフラーは竜児のものだが、それを気に入った大河は何度もそれを借りていて、今では2人の匂いがその中に溶け合っていた。

異様な音に、大河は目覚めた。音のする窓の外では、サンタ服のクマの着ぐるみが、窓を叩いていた。恐怖した大河だったが、力尽きて窓から落ちそうになるサンタを、大河は部屋の中に引き上げた。本当にサンタが来てくれた! 大河は大はしゃぎ。心から、幸せを感じた。

しかし、一通りはしゃいで、正気に戻った。着ぐるみの頭を取った。やはりそれは、竜児だった。大河は竜児に「ありがとう」と言い、そして竜児を無理やりに送り出した。実乃梨が待つであろう、クリスマスパーティーの会場に。

竜児が去ったリビングで、不意に溢れ出す涙に、大河は驚いていた。そして気付いたのだ。

サンタに縋るように、まるで夢のように、竜児に縋って生きてきた自分に。自分は永遠に一人で生きていく。そう決めていた。だから、これはいずれ終わるであろう、一刻の夢。それをわかっていて、竜児に縋って生きてきたのだ。これだって夢なのだから、これぐらいいいよね、と。

その夢は、今、終わったのだ。竜児と実乃梨は間違いなく両想い。だから、2人は付き合い始めるだろう。そうなればもう、自分は竜児の傍には居られない。いずれ終わる夢だというのははじめからわかっていたことだし、こうなったのも、自分が望んだ結果に過ぎない。それは確かにわかっていたけれども。だけれども。全然わかってなんかいなかったのだ。

とめどなく溢れる続ける涙に、竜児と離れるのが嫌だという自分の気持ちに、今初めて、本当に気付いたのだった。竜児が好きだという、自分の本当の気持ちに。

ここでは引用はしないが、原作におけるこのシーンの心理描写は、すさまじい。ぜひ原作を手にとって読んでみて欲しい。

そして大河は裸足のまま、外に飛び出していた。竜児を呼び止めるために。もう遅いのはわかっていた。やはり、竜児の姿は無かった。大河は泣き続けながら、もう届くわけがないと知りながら、竜児の名前を繰り返し叫んでいた。

その大河の姿を、実乃梨は見ていた、というカットで、アニメ版のこのシーンは終わる。だが原作はこう続くのだった。

 そして、嵐みたいにぐちゃぐちゃになった心の一方で、頭はクリアでもいた。あーあ、と泣き叫ぶ自分を呆れたみたいに見下ろしている自分がいた。これだから現実はいやなのよ、と。夢と違って壊れてしまう。失われてしまう。
 (中略)
 そう、ずっと愚かな夢を見ていた。
 (中略)
 だけど現実はそうではなかった。竜児は、父親なんかではなかった。
 (中略)
 そして別れの瞬間は、「巣立ち」なんて前向きなものではなく、ただの「喪失」。自分は竜児を失って、たった一人で、孤独な未来を生きていかなくてはいけない。
 (中略)
 現実は、壊れた。そして夢からも醒めた。残ったのは、この身ひとつ。
 (中略)
 世界が涙に沈んでいく。


ここ結んでも良いような表現だが、しかし原作はさらに続ける。

 映画やドラマだったら、このあたりでそろそろ都合よくフレームアウトしてくれるところだろう。
 (中略)
 だけど現実はやっぱり残酷で、自然にフレームアウトなんてしてはくれないし、竜児だって現れはしない。いっそこのまま力尽きて死んでしまえたらドラマチックなのに、人間なかなか簡単には死ねない。特に自分という女はまた、いやってほどに頑丈にできているのだ。
 無様で、惨くて、悲しくて寂しくてみじめでみっともなくてバカみたい。でも、生きてる。それが大河の現実だった。ここから逃げたりはしない。泣いてしまったけれど、このまま死んだりはしない。
 強くなりたいから。
 それは真実だから。


そして、一人で生きていく強さを備えた大人になる、という覚悟を固めた大河が立ち上がるまでを描ききって、原作のこのシーンはようやく終わる。

結: ハッピーエンド 「虎と竜」

この後は、ひたすらガチのシリアス展開。コメディ要素なんかもはや無い。重い重い試練の連続で、原作ではそれを巡る濃密な心理描写が怒涛のように続いてゆく。

以下は、俺なりの考察だ。

親の愛を知らずに育った大河は、自分は何も望んではいけない、と思っていたのだ。自分が望んだものは、必ず、壊れてしまうから。だから、一人で生きていくと決めていた。でもせめて、大好きな竜児と、大好きな実乃梨が結ばれて幸せになれば、その姿を見て自分も幸せを感じることができるのだ、と信じて、2人を結びつけようとしたのだと思う。

一方で北村に恋心を抱くことができたのは、北村の人格をよくわかっていたからなのだろう。北村は、他人の気持ちをよく理解し、でも必要以上には踏み込まない人間なのだ。そういう相手となら、こんな自分でも、一刻の夢としての、永遠の愛には繋がらない儚い恋愛を心から楽しむことができる、と思ったのかもしれない。

そして、竜児にもそういう恐怖があった。母一人に育てられた竜児にとって、母を失うことは恐怖だった。因果応報も恐怖だった。父親に捨てられた自分が、両親に捨てられた大河と一緒になっても、結局はまた、生まれてくるかもしれない子供には、自分たちと同じ辛さを味あわせてしまうのではないか。そういう恐怖があった。

だから、底抜けに明るい実乃梨には憧れることができても、大河との関係においてもう一歩を踏み込むことには、臆病であった。

でも、そういった恐怖を乗り越えて、幸せの未来を具体的に想像する力を持つことができれば、ちゃんと何かを望むことができる。そして何かを強く望むことができれば、そのために具体的に行動し、それを手にすることが出来るかもしれない。

その想像力こそが、「虎であり竜」なのだ。それは、簡単には見つけられないけど、誰だって心の中に、虎や竜を持っている。だから探し続ければ、いつかはそれを見つけられる。それを手に入れるべきたった一人、つまりあなた自身が、ちゃんとそれを見つけられる。「そういうふうになっている。」と。

そうやって、大河と竜児が一緒になる、大団円のハッピーエンドに繋げ、物語を結んだ。

シャボン玉のうた

シャボン玉飛んだ
屋根まで飛んだ
屋根まで飛んで
こわれて消えた

シャボン玉消えた
飛ばずに消えた
産まれてすぐに
こわれて消えた

風、風、吹くな
シャボン玉飛ばそ。


だから「とらドラ!」原作は、この有名なシャボン玉のうたなのだと、俺は理解した。この歌では、シャボン玉を、子供達の命に喩えている、という説がある。このうたが作られた当時は、乳幼児が死ぬことはさほど珍しいことではなく、2、3割の子供が学齢前に死亡していたという。そして、たとえ子供を失っても、それでもまた産み、育てていこう。そう思えることこそ、命の力だという、残酷だが力強い歌だと思う。

そう思うと、本作の裏主人公が、泰子のようにも思える。本作中では、登場人物は誰も死ぬことは無い。しかし、出産に反対する両親から逃げ、胎内に宿した竜児を守るためにたった一人で家を出た17歳の小娘の心中は、想像するに難くない。出産前も、後も、竜児を失うことへの恐怖が常にあっただろう。

恋と団欒の物語

これは、そんな"手乗りタイガー"をめぐる
恋と団欒のものがたり──

というのが原作第1巻の、本編前のキャラ紹介部分の締め。

結局、終わってみても、大河の竜児に対する恋心も、竜児の大河に対する恋心も、見えては来ない。だから、2人の想いは結ばれて結婚はするけれども、そこにあるのは恋愛という関係ではなくて。父娘のような、不自然だった擬似家族的な団欒が、夫婦という本来あるべき家族団欒の形に修正されたわけだ。

「とらドラ!」の夢と現

「とらドラ!」アニメ版が「切ない夢」なら、原作小説は「残酷な現」。そんな対になっているように思う。

アニメ版は、原作の持つ残酷さを、ややソフトに抑えている。そして原作にはない、ハッピーエンドを示唆するようなフラグが、要所要所に用意されていたようにも思う。絶妙の匙加減だと思うし、構成や演出も素晴らしい。

一方の原作小説は、ハッピーエンドを示唆するようなフラグは、1巻冒頭の言葉、「(前略) そういうふうになっている。」だけのように思える。4巻終盤以降、重々しいシリアスな描写が増えていくにつれ、不安ばかりが募ってくる。そして容赦無く、読者自身の現実に、目を向けさせようと仕向けてくる。

原作を読み終えた俺は、そのハッピーエンドを見て感動しつつも、ああこれは夢だ、と。没入できずに、醒めた目で見る夢だと。そんな印象を持ってしまっている。

そして俺の現は、読み終えてなお、クリスマスイブの夜、大河が竜児を呼んで叫んでいた、あの場面の中にある気がする。立ち上がるべきは誰だ? 俺のことじゃないか? と。

繰り返しになるが、親の愛を知らずに育った大河は、自分は何も望んではいけない、と思っていたのだ。自分が望んだものは、必ず、壊れてしまうから。だから、一人で生きていくと決めていた。でもせめて、大好きな竜児と、大好きな実乃梨が結ばれて幸せになれば、その姿を見て自分も幸せを感じることができるのだ、と信じて、2人を結びつけようとしたのだと思う。

これは、ラブコメを読む俺の心理にとても近い。

だがこの「とらドラ!」原作は、それじゃ駄目なんだと言う。「幽霊やUFO」は、「不思議な世界のもの」と一蹴してみせた。「神様も、サンタも、この世に存在していない。救いなど──見ている誰かなど、いない。」のだという。だから、そういったものに縋るのではなく。どんな逆境の中でも、ちゃんと自分自身の現実に目を向けて、現実の中で未来を力強く想像し、その実現のために行動して行け、と。

一方で、「星の光」は、確かなものとして描写されている。それは、本当の勇気を持って離別を選択し、目標実現のためにがんばる人々への応援歌みたいなものとして描写されている。

結局、原作版「とらドラ!」を、「残酷だが幸せなラブストーリー」として読み切ることができるかどうかは、読者自身が、自分自身の現実について「そういうふうになっている。」ということを信じる力を持っているかどうか、という点に集約されるのだろう。

思考実験: 孤独の虎は生きて行けるか?

考えずにはいられない。もし竜児と結ばれるという結果にならなかった場合、大河はどうなるのだろう?

俺としては、孤独を抱えつつも、ちゃんと生き抜く力があるんじゃないか、と信じたい。

あのイブの夜に、「竜児がいなければ、恋もできない。」と悟った大河だけれども。でもさ、大河が北村に恋心を抱き始めたのは、竜児に出会う前なんだよね。

イブの夜の後、2回も死にかけた大河だったけれども、それはきっとまだ目の前に居る竜児のことが諦めきれなかったからで、竜児が目の前から完全に去ってしまえば、もっと冷静になる力を大河はきっと備えているんじゃないだろうか。

竜児との別れによりますます恋愛には臆病になり、結婚という形での幸せはもはや得られないかもしれない。でも、竜児に出会う前から仲の良かった実乃梨の存在がある。だから少なくとも、これから先の人生でもきっと、良い友人には恵まれる。大河には、そういう力がある。そう信じたいです。

何せ、竜児との出会いの前は、一人で生き抜く、という覚悟を固めて生きてきた人間なんです。学業のほうでは成績優秀。仕事もできそうですから。夢のない話ではあるが、それもまた一つの救いに思える。

そう思うと、PSP版 (ゲーム版) にも興味が湧いてきたかも。これはマルチエンディングで、出来も良いらしい。

命題: サンタクロースは存在するか?

「サンタが私のことを見てる。」そう言う大河の心の闇を覗き見て、竜児は思った。

 こんな奴もが、生傷を開いたままで一人で歩いていかなければならないほど、それほどに世界は残酷にできているのだろうか。だとしたらやっぱり神様も、サンタも、この世に存在していない。救いなど──見ている誰かなど、いない。

でもさ、あのイブの夜、絶望の淵にあった大河のことを、ちゃんと見ていた存在があった。その大河の様子を半分偶然に目撃しまった実乃梨のことではない。大河は、実乃梨の存在には全く気付いていなかったのだから。大河のことを見ていた存在とは、

 そして、嵐みたいにぐちゃぐちゃになった心の一方で、頭はクリアでもいた。あーあ、と泣き叫ぶ自分を呆れたみたいに見下ろしている自分がいた。これだから現実はいやなのよ、と。夢と違って壊れてしまう。失われてしまう。

そう、それは大河自身。つまり、大河は、絶望の淵にあっても、自分を客観視出来る力を持っている。そしてその力を大河に与えている存在こそ、サンタさんなのかもしれない。

誰かが見ていると信じることが出来ること。見ていてくれると信じることが出来る存在があること。そういう存在が、いわば心の鏡のように働いて、自分を客観視できる力に繋がるのかもしれない。それがたとえ架空の存在である、と理解していても、それでもなお、それは、現実の人間に何らかの力を与え得るのではないだろうか。

だとしたらやはり、サンタクロースは存在している。神様だって存在している。そう思いたいです。

そしてそういう存在に縋るのは、必ずしも弱さではない。それをちゃんと自分の人生に役立てることができるのであれば、それは強さだと思う。

だけど一人で悩み過ぎるな

俺は以前、対人関係でトラブルを作ってしまって、しかし相談できる相手もおらず、自分を客観視することもできず、結局一人で鬱々と悩んで、軽症うつ病に陥ったことがある。それで仕事も辞めざるを得なくなり、結構長い間、何もできずにぼーっとすごした。

何を間違って、そうなってしまったのか。

俺は多分、悩みからは、自分の力 (交友関係なども含めて、ここでは自分の力としている) で立ち上がらなければいけない、と思っていたのかもしれない。

でも、それはきっとさ、架空のドラマの中での話なら、という前提があってこそ、美徳なんだと思う。そうしないと、ドラマにならないから。

でもね、俺も含め、現実の世界に生きている人間と言うのは、架空のドラマの主人公なんかでは無いわけで。その点に、俺は気付いていなかったのかもしれない。馬鹿な話だが。

人間誰だって、弱さを持っていると思う。だから、それを他人に見せることは、恥なんかじゃない。むしろそうできることが、ひとつの強さなのかも。

とはいえ現実世界では、プライベートな人間関係の中では、なかなかそうも行かないわけでさ。ドラマの中のように、そんなときに助けになってくれる素晴らしい人間関係は、なかなか築けない。

でもこの現実世界には、そういう悩める人の手助けをするための枠組みが、ちゃんと用意されている。少なくとも、この日本にはそれがある。

つまり、たとえ相談できる相手が、自分の個人的な知り合いには居なくてもね、この世の中にはプロのカウンセラーさんが居るわけで。だから、一人で悩める人が持つべきなのは、そういった存在を利用してみよう、という一歩かもしれない。それこそが、ひとつの強さだと。そう信じたい。

最近、長引く風邪のせいもあって色々と考え過ぎたので、診療内科に足を運んで、生まれて初めてカウンセリングを受け始めた俺でした。まだ1回受けただけだけれども、なかなか面白そう。軽症うつ病に陥ったときと同じ轍は、もう踏むまい。

Category: エンターテインメント

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