2012.10.08

エンターテインメント : 「人類は衰退しました」の序章としての「銀色ふわり」

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有沢まみずさんによる「銀色ふわり」 (電撃文庫) という小説 (ラノベ) 読みました。(レビュー、書評、感想)これは典型的ないわゆる「セカイ系」 (というらしい。意味が気になる人は各自でググろう) に分類されるボーイ・ミーツ・ガールもの。冬を舞台に、美しい情景描写と併せて静かに進んでいく感じが好き。タイトルと表紙絵が内容をよく表していると思いますので、表紙が気になったら買いです。

現在のところ1巻のみが発売されています。しかし1巻で完結というわけではなく、あとがきによると続編の構想もあったようなんです。でも発売からもう数年経ってるのに残念ながら未だ続巻なし。ただし、この1巻だけでもよくまとまっていますし、足りない部分は妄想で補えばOKかな。でも続編いつか出るなら読みたい。ぜひ読みたい。

この「銀色ふわり」は、SF作品なのですが、そのSF設定からは、「人類は衰退しました」を強く連想させれました。作者も違いますし、直接的には何ら関連の無い作品ですが、この2作の繋がりについて勝手に妄想してみることにします。以下ネタバレ&長文注意。さて、「人類は衰退しました」とは。

「人類は衰退しました」の世界

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「人類は衰退しました」とは、田中ロミオさんによる小説 (ラノベ) シリーズ (ガガガ文庫) および、それを原作とするアニメ作品です。ちなみに私はアニメは通して見たものの原作は未読。文章力を高く評価する声をよく見掛けますので原作気になってます。いずれ読みたい。数冊出ており、1冊あたり2~3話程度収録。アニメ見た限りでは1話完結かつ各話間の繋がりも薄いので読み易そうです。

世界設定としては、遥かな未来。人類はいつの頃からか緩やかな人口減少が続き、残された人口はもはや僅か。かつて有していた高度な科学文明もほぼ失われ、人類は衰退した。そして今も続く人口減少には歯止めがきかず、静かに、ゆるやかに絶滅へと向かっている。

そんな中で、いつの頃からか人間が「妖精さん」と呼ぶ謎の生命体が登場し、今や地球の至るところが妖精さんだらけ。今や地球人類といえばこの「妖精さん」のことで、人間はもはや旧人類とでも呼ぶべき存在になっている。

妖精さんが人間を征服して地球を奪ったのではない。人間が何となく減り、やがていつの間にか妖精さんが登場し、いつの間にか何となく増えた。それだけのこと。人間と妖精さんとの関係は良好で、人間は絶滅への道を着実に歩みつつ、そこそこ平和に暮らしている。絶滅への歩みに抗おうとは、もはやしていない。ただ静かに、穏やかに、暮らしている。

そんな世の中で、妖精さんが巻き起こす騒動に巻き込まれる人間の姿を微笑ましく、かつシュールに描くのが本作。物語の具体的な内容にはここでは触れませんが、妖精さんに関するSF設定について解説します。

その、妖精さんとは。よくわからない存在なんですな。以下、アニメ版を見て、一部Wikipediaで補完した限りでは。

  • 地球のどこにでも居ると言われているけど、さほど姿を見せることはない。妖精さんを見たことがない人間もいっぱいいる。
  • 楽しいことが大好きで、楽しいことを見つけると、どこからともなくわらわらと集まってくる。
  • 高度な科学力を有し、楽しいことのために様々な道具を作り出す。大都市をたった2~3日で築き上げることも。科学と言うよりは魔法に近いようにも思えるが、人間は科学だとみなしている。
  • 楽しいことが終わると、あっと言う間に散ってしまう。
  • どうやら個々の妖精さんを呼び分ける名前は無いらしい。でも「テキトーに生きてますゆえ」に別に困らないらしい。

こんな感じなんです。集まってくるときは、本当にどこからともなく。何となく増えます。それどころか、果たして集まってきたのかどうかすら謎。実は、その場で何となく増えてるのかもしれない。

で、そもそも妖精さんたちがどうやって繁殖するのかも、人間にはよくわかってない。彼らが死ぬのかどうかも、よくわかっていない。妖精さんたちに直接尋ねても、妖精さんたちは「さぁ?」としか言わない。それも、何かを隠しているようではなく、どうやら本人たちにもわかってないという感じ。

つまりは妖精さんたちは、何となく増えて、何となく居なくなる。増えたり減ったりする過程を、本人たちは自覚していない。これは要するに、生死の概念を持っていない、いやむしろ生死の概念を超越した超生命体である。ということなのでは無いかと思います。

生命体であることは間違いないのですが、物理的に存在しているかどうかは怪しい。人間は、妖精さんたちのことを生物の一種と考えてはいるようですが、人間の科学力が失われた今では詳しく検証する術を持たない。もしかすると妖精さんという呼び名の通り、人間が住む物理世界とは別世界の住人なのかもしれない。

SFのひとつのテーマとして、生命の究極進化とは? という命題があります。アーサー・C・クラークの「幼年期の終わり」がその代表作のひとつでしょう。そんな命題のひとつの答えの形が、この「人類は衰退しました」の妖精さんたちなのかもしれません。

増えたい時には何となく増える。居なくなるときには何となく居なくなる。そしてただひたすらに、楽しいことを純粋に追い求める。これはひとつの、生命の理想像なのでしょう。

「銀色ふわり」の世界

「銀色ふわり」の方は、今とそれほど大きくは違わない、少しだけ先の近未来のお話。以下、SF面に絞って解説します。ラブストーリー面でのネタバレは避けますので、そちらはぜひご自分で読んでみて下さい。

今、現実の地球においては、主として先進国で出生率の低下が続いています。そして「銀色ふわり」世界の地球ではその傾向が進み、先進国だけに留まらず、全世界的なものとなった。いよいよ世界人口がゆるやかに減り始めた。考え得る様々な対策を実施しても、その傾向は覆すことが出来ていない。

そんな世界の中で、いつの頃からか「黄昏の子供たち」(dusk children) と呼ばれる不思議な子供たちがごく少数ながら生まれて来るようになった。

「黄昏の子供たち」(dusk children) とは、「目に見えない」子供たちのこと。物理的には確かに存在している。しかし例え「黄昏の子供たち」が目の前に居たとしても、普通の人間にはその姿を知覚することが出来ない。何故なら、網膜にはその姿が映っているにも関わらず、脳がその存在を無意識に無視してしまうから。だから、普通の人間には見ることは出来ないし、声を聞くことも、触れ合うことも出来ない。

そしてこれは、「黄昏の子供たち」を産み落とす母親たちですら例外ではない。母親たちは、「黄昏の子供たち」を産んでも、その姿に気付くことが出来ない。そして、その姿に気付けない故に、脳の中で勝手に合理的な解釈を作ってしまう。それは多分、例えば、産んだという事実を記憶から消し去ってしまうという形で、あるいは妊娠という事実すら忘れてしまうという形で、その記憶を改竄し、記憶の整合性を保つ。全ては無意識のうちに。それも集団的に。

だから誰も、「生まれたはずの子供が見えない」という事実に疑問を抱くことがない。何故なら、その事実に気付くことすらないのだから。よって誕生した後、誰にも、母親にすら。その存在が気付かれることなく、ひっそりと死を迎えた「黄昏の子供たち」もおそらくは居るのだろう。

「黄昏の子供たち」がいつの頃から生まれるようになったのかははっきりとはわかっていない。だが、そういう子供たちが存在するという事実は、偶然に発見された。出産の様子を撮影したビデオ。そのビデオに写っていた子供の姿に、出産に立ち会った人々は気付いて居なかった。母親ですら。しかし撮影されたビデオの中には、その子供の姿がはっきりと確認できたのだった。

つまり、普通の人間は「黄昏の子供たち」の存在を直接認知することが出来ない。しかし、ビデオ撮影された映像や、マイクとスピーカーを通した音声であれば、認知することが出来る。

そしてこの関係は、逆の立場、すなわち「黄昏の子供たち」から普通の人間に対しても同様だ。つまり、「黄昏の子供たち」は、普通の人間の存在を直接認知することが出来ない。しかし、ビデオ撮影された映像や、マイクとスピーカーを通した音声であれば、認知することが出来る。

だから、ビデオやマイク、スピーカーを介すことで、相互にコミュニケーションを取ることが出来る。

だがしかし。「黄昏の子供たち」が直接認知出来ないのは、普通の人間だけではない。「黄昏の子供たち」同士も、互いにその姿を直接認知することが出来ない。それどころか、「黄昏の子供たち」は、あらゆる生物の存在を直接認知することが出来ない。草や木の存在すら、認知することが出来ない。

すなわち「黄昏の子供たち」は、物理的には存在しているものの、その存在が「世界から無視」されている。究極の孤独の中に、生まれつき、彼らはある。

その「黄昏の子供たち」の一人であり、研究者たちがイエスタデーと呼ぶ、まるで妖精のように美しく聡明な銀髪の少女と、その少女の存在を何故か見ることが出来る少年との偶然の、しかし運命的な出会い。そこから始まる物語が「銀色ふわり」です。

もしあなたが "世界" からなにかを託されたのなら......あなたはそれにどう応えますか?

この物語には、上記の序文が加えられています。

現代の人類の閉塞感

「黄昏の子供たち」を保護観察する研究者たちは、「黄昏の子供たち」のことを「人類の至宝」だと考えています。何一つはっきりしたことはわかっていないとはいえ、研究者たちは、衰退への道を歩み始めた人類の未来を変える鍵が、「黄昏の子供たち」に秘められいているのではないかと推測しているわけです。

「黄昏の子供たち」とは一体何なのか。本書では、それに関する考察は提示されはするものの、それは著しく不完全です。恐らくは、詳しくは続巻で、という構想だったのでしょう。しかし未だ続巻は出ていない。ゆえに、妄想が膨らみますね。

現在、現実の世の中において、先進国においての出生率低下の理由とはどんなものでしょう。様々な理由はあるかとは思いますが、ひとつには科学の先行きが見えてしまったことへの閉塞感があるのではないかと思います。

現在の科学が達成した最高の到達点のひとつが、宇宙進出でしょう。かつて、宇宙進出には夢がありました。やがては光の壁を超え、広い宇宙の海原を自由に航海できるようになる日が来る。そう、「スタートレック」のように。それは遠い未来かもしれないが、でもいつかはそんな日がきっと来るのだと、どこか楽観視していた。そんな夢と連動するように、人類は月に立ち、スペースシャトルを打ち上げ、国際宇宙ステーションを築きました。

しかし、科学が進歩するにつれて、光速の壁の突破の非現実性がはっきりしてきた。これはあくまで、現段階での人類の知見としての限界であり、将来的に何らかのブレイクスルーが発見される可能性もゼロではないとは思います。ですが、現段階ではそのブレイクスルーは全く見えてきていない。

アメリカは火星に人類を送り込む計画を表明してはいるものの、月への再進出すら未だ遠く。技術の粋を尽くしたスペースシャトルは退役し、その後継機の計画はことごとく頓挫し。現在計画されている後継機は、スペースシャトルよりむしろ古い技術であろう、カプセル型に先祖返り。長い歳月と膨大な予算をつぎ込んで完成した国際宇宙ステーションについても、その存在意義には疑問符があり。「スタートレック」のTVシリーズは、「スタートレック: エンタープライズ」(2001~2005年) を最後に作られなくなり。果ては、月に立ったという現実すら、現実味が無い事実として疑問視される始末。

そんな閉塞感が、宇宙開発のみならず、社会の様々な部分にあるのが、今の人類世界なのではないかと思います。

進化の形

科学が描き出してみせた夢が、科学の発展により明らかになった、大き過ぎる現実の壁の前に脆くも崩れ去ったのなら。それは、人類を更なる高みへと導くものは、科学の力ではない、ということなのかもしれない。

SFの世界では、生命の究極進化の形は、肉体からの解脱ではないか、という答えがひとつの可能性として提示されており、肉体を持たない、精神だけの生命体というのは、様々な作品で登場するポピュラーな存在です。「人類は衰退しました」の「妖精さん」についても、それに近い存在と解釈することも出来るのではないかと思います。

そして「銀色ふわり」の「黄昏の子供たち」は、物理的には存在するが、他者からはその存在を直接認知出来ないし、他者を直接認知することも出来ない。これは、「黄昏の子供たち」が、人類が肉体からの解脱に至る過程で生まれた、物理的存在性が曖昧な存在と言えるのではないでしょうか。

ならば何故、そのように半端な存在が生まれなければならないのでしょう。恐らく多くの場合は、自分を産んだ母親にすらその存在を認知してもらえずに、生まれて間もなく、孤独な死を迎える。

シャボン玉消えた
飛ばずに消えた
産まれてすぐに
こわれて消えた

この歌は生まれて間もなく死んでしまった子供たちのことを歌った歌とも言われているが、「黄昏の子供たち」は、このシャボン玉にすらなれない。シャボン玉はたとえ生まれてすぐに消えても、生まれたという事実だけは残る。それはきっと、意味のあること。でも、誰にも認知すらされずに死ぬ「黄昏の子供たち」は、それすら残すことができない。

運良くビデオカメラ等で確認された場合のみ、なんとか生きて行ける。そんな存在が、どうして生まれなければならないのでしょうか。

恐らくは、進化とは痛みを伴うものだから。痛みを必要とするものだから。

生命の進化の上でのブレイクスルーには、常に試練が伴ってきています。かつて恐竜を絶滅に追いやったとされる巨大隕石の衝突。あるいは太陽活動の変化等に伴う地球規模での気候変動など。

そして「黄昏の子供たち」こそ、"世界" からその試練を与えられた存在なのでしょう。今回の試練とはすなわち、究極の感情を知ること。究極の孤独を知ること。究極の孤独を知った上で、究極の喜びをも知ること。

そうやって「黄昏の子供たち」は、消え去る際には強い「思念」のようなものを遺していく。それは少しづつ "世界" に蓄積されていく。

そして「人類は衰退」する

そうやって蓄積された「思念」が、やがて新しい形の生命体へと昇華したのが、多分「人類は衰退しました」の妖精さんのような存在なのかもしれません。

妖精さんは生死を超越し、楽しいことを純粋に追求する存在ですが。とても感情豊かな存在でもあるのです。

ある人間が、人知れず「もうひとりは嫌だ」という孤独を漏らした際。たまたま居合わせた妖精さんは、嬉々としてこう言い切ったのですよ。

「それはたやすい願いです♪」

孤独を知るゆえに、またそれを乗り越えた喜びを知るゆえに、それを解決する方法も知っている。そういうことなのかもしれません。

何故ならば。彼らはあの「黄昏の子供たち」の末梢なのだから。あるいは、彼ら自身が姿を変えた存在なのだから。

「黄昏の子供たち」は、恐らくは存在したのはほんの一時期だったでしょう。その存在の痕跡は、恐らくは歴史には残らない。生命の進化の過程でのミッシング・リンクとなるべき存在。それは、とても切ないことです。

ですが、あの時「それはたやすい願いです♪」と言った妖精さんが、銀花 (イエスタデーという少女の別称) だったと考えると。とても救われた気持ちになれます。

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そして「人類は衰退」するのです。進化とはそういうもので、長大な時の流れの中で、様々な新しい生命が生まれ、様々な古い生命が絶滅して、世代交代していく。これは残酷なようで、自然な流れなんでしょう。だから、それを悲しむ必要はない。

絶滅への歩みに抗おうとしない「人類は衰退しました」の人間たちが持っているのは、諦観と言うよりは、悟りなのかもしれません。だから滅亡への歩みも、そこそこ平和で、静かで、穏やかなんでしょう。

以上、妄想でした。最後まで読んでいただき感謝。

Category: エンターテインメント

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