雑想: 2009年
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2009.12.30

命の定義とは?

命の定義とはなんだろう。まず語るべきは、生物と無生物との境界とは? という命題だろうか。

生物と無生物との境界とは?

そこで登場するのが、ウイルスという存在だ。ウイルスは、他の生物の細胞を利用して、自己を複製することができる存在だ。しかし、自力での自己複製はできない。それだけでなく、ウイルスは、代謝を行なわない。つまり、単体として存在するときは、完全に静的な存在であり、何らの活動も行わない。他の生物の細胞に侵入し、それを利用して自己複製する過程も、あるいは突然変異による変化も、純粋に化学的反応によるもので、自発的な活動らしきものは一切やらない。

そこで、現在の生物学上では、ウイルスでは生物ではなく無生物であるとされている。が、しかしこれはあくまで現段階における便宜上の位置づけに過ぎない。生物ではないものの、生物学的存在ではある、とか言われたりもする。結局、現在の科学においては、生物と無生物の境界については、どう定義すべきかよくわかっていない、というのが現状のようだ。

ガイア理論──地球は生きている?

命の定義とは?

2009.12.28

生きるということは綺麗事ではない

当たり前の話ではあるが、生きるということは綺麗事ではない。生きるためには、食べるため、あるいは自分の身を守るため、その他様々な理由で、他の生物の命を奪わざるを得ない。これはもちろん、人に限った話ではない。一見は平和的に見えるごく一般的な植物でさえ、病原体や害虫に対しては、農薬に似た物質を作り出して対抗する防御機構を持っていたりもする。この植物が自然に作り出す農薬様物質には、化学農薬と同様に発ガン性がある。だから無農薬栽培の野菜なら綺麗・安全、ということはなく、むしろ農薬に守られて育ったものより高い発ガン性を持つことすらあるという。また、雑草が農作物の成長を妨げるように、植物同士での生存競争もある。植物も、自らが生きるために、他者を殺しているのだ。

人は時に、自らが綺麗でありたいと願う。そのために、煩悩を絶ち、禁欲し、肉食・魚食を絶って菜食して精進する、というような生き方を選択したりもする。しかし、それが動物であれ植物であれ、命は命だ。植物の命が動物の命より軽いということはないだろう。植物を食べる場合は、植物の種類にもよるが、動物の場合と違って、必ずしもひとつの個体全体を殺す必要はなく、食べる部分だけを切り出して食べることもできる。だが、多細胞生物は、多くの生物の共生体である。ひとつの個体全体にも命は宿るし、個々の細胞にも命は宿る。どういう形であれ、命を奪って糧とする、という点は、等しく変りないと思う。

鯨のような、高い知能を持つ生物を食することを忌み嫌う人もいる。しかし知性の高低と、命の価値とを客観的に関連付けることは不可能だろう。ではなぜ、高い知能を持つ生物を食することを忌み嫌うののだろうか。それは結局、人間は高い知能を持つから特別の存在であって欲しい、という気持ちの裏返しに過ぎ無いのかもしれない。要するに、これは差別である。

生きるということは綺麗事ではない